作:成也
(2)
甲児君と出逢ったのは、あれは私に正式に海の上に行ってもよいという許可が下りた誕生日の日だった。
子供の頃から沈没した船や流れ着いた本や絵を見て、陸の人間達の文化に直に触れてみたいと憧れを抱くようになった私は、誕生日になるずっと以前から海王である父の目を盗んでは、幾度となくお忍びで海の上へ遊びに行っていたの。
お目付役の三大臣などは、海王にばれたら大変といつも大騒ぎをして私を止めるんだけど、そんなの海の上への好奇心に比べたらヘッチャラ。優しい三大臣達は結局いつも根負けして、私の力になってくれたわ。
浜辺のギリギリまで近寄って行って人間を観察したり、夜空にあがる花火を楽しんだりして、夢のように楽しかった。
誕生日の日もいつも以上にわくわくしながら海の上へ浮かび上がっていくと、目の前にとても大きな船が浮かんでいたの。
海底に眠っている人魚達の遊び場の巨大船よりも、もっとダイナミックな船。人間って凄いなぁ〜、色々な物を発明していく。
今度はどんな船?
持ち前の好奇心が止まらなくなっちゃって、私は危険も顧みず船を触れるくらいの所まで近づいちゃった。
船上からは大勢の人々の笑い声や歌声が聞こえてくる。
デッキにはとても品の良い紳士が立っているし、あっ、ダンスしてる人達もいるわ。
うらやましい、私にもあんな風に踊れる足があったらどんなに素敵だろう。
流れてくる曲の心地よさに浸っていると、突然私の目に一人の青年の姿が間近に映ったの。
「キャー」
私は思わず、海中に潜り込んだわ。
だって、一瞬見られてしまった気がしたんですもの。
海の掟では人魚は絶対にその姿を人間に見られてはいけない事になっていて、もし見つかった場合は相手を倒すか、自ら命を絶つかの厳しい掟なの。
そうやって消えていった海の民もまた数え切れない程いたって、お父様は子供の頃から私に何度も話してくれたわ。
なんて悲しい掟…でも、そこまで命を賭けられるものに出逢えるのがうらやましいとさえ感じてしまう。
海の中の生活は本当に穏やかで、優しく時が過ぎていく。
私はお父様や三大臣、そして他の海の仲間達に囲まれて何不自由なく暮らしていける。それでいいはずなのに…でも、何かが違う。
自分が心の奥で求めている「何か」に、私はまだ本当に出逢っていない。
逢えるのかしら? それとも、一生このまま?
そんな事を考えながら少し間を置いてから再び海上に顔を出した時、先程見かけた紳士がキラッと光る何かを海へ向かって、放ったの。
気のせいかしら? その紳士がニヤリと笑ったように見えたのは…。
その不気味さに私、一瞬背中に寒気を感じてしまったくらい。
そしてその直後、バシャーンという凄い水音と共に誰かが船から海へ飛び込んだみたい。
「えっ、何なの? 一体…」
私は突然の事に訳もわからないまま、海中へ潜っていった人の顔を見る。
「あれは…さっき間近で見た男の人。どうしたのかしら?」
男の人は、しきりに何か探している様子だった。
だが、なかなか探し出せないらしく、尚も深く先へ進んで行こうとする。
「待って−−、それ以上は人間では危険よ」
私も慌てて、彼の後を追う。
「人間なのに、割と泳ぐの早いのね」
私が心配しているのも知らないで、そんな勝手にどんどん泳いで行かないで。
でも何だか不思議な空間。
広い海の中で、たった二人きりでいるみたい。
それに私、どうしてこんなにもあの人の後を追っているの?
この姿を人間に見られてしまったら、その方がもっと困るんじゃないの。
それなのに……自分でも不可解だった。
でも、追わずにはいられなかった。「何か」が、私を無性に追い立てる。
その時、突然彼がバランスを崩していってしまう。
大変−−っ、溺れてしまう。
私は急いで彼の元に泳ぎ着くと、咄嗟に彼の腕をつかんで気を失ってしまった男性をそのまま自分の体で支えるようにして、海上へと浮上して行った。
浜辺までたどり着いた私は、なんとか懸命にその男性を介抱するんだけど、彼はなかなか意識を取り戻さなかったわ。
「まさか、死んじゃったんじゃないでしょうね?」
青ざめたままの顔色を見て心配になって、彼の胸元に耳を近づけてみる。
ドクン…ドクン…心臓の鼓動が確かに、聞こえてくる。
(よ、よかった〜、生きてる−−−っ)
私はホッとする。そして、まじまじと男性の顔を見つめる。
こんな近くで人間を見たのは、生まれて初めて。
恐る恐るその顔に触れようとした時、彼が意識を取り戻す。
私、慌てて岩影に身を隠したわ。
でも…目を覚ました彼の瞳は、なんてきれいなのだろう。
そう感じたら、なんだか私とってもドキドキしてきちゃって…。
どうしたんだろう? この気持ちは、一体…。
起き上がった男性はまだ完全でないらしく、ふらつきながらも再び海の方へ向かおうとしていた。
私は思わず、叫んだ。
「ちょっと、何を考えているのよ。今、死にかけたばかりだったっていうのに、何をしようとするの。助けたこっちの身にもなりなさいよねっ」
突然の声に男性はびっくりした表情で、振り返る。
沈黙の時が流れる。
我に返った私は、“しまった−−−”とばかりに再び岩影に身を隠したけど、既に遅かったのよね。人魚の姿をまともに見せてしまったんだもの。
どうしよう〜、海の掟を破っちゃったんだわ…私。
頭の中は今、とてつもなくパニック状態になっているのだけれども、水の上を歩く足音がした途端、ハッとした私は彼がそのまま海へ向かおうとするのを、必死に引き止めようと、また身を乗り出さずにはいられなかった。
「もう、どうしようもない大馬鹿者よね、貴方って。どういう思考回路してんのよ? 助けた者に対して、お礼の一つも言えないの?」
私はちょっと腹立たしさも手伝ってか、彼に喰ってかかる勢いだった。
この人の為に、こっちは海の掟まで破っちゃって死活問題だというのに、一体何なのよ〜。私の明日を返してよーもうっっ。
彼は、ペコリと一礼する。だが、相変わらず一言もしゃべろうとはしなかった。
「なんだか、馬鹿にされちゃってる感じね。人間なんて助けるんじゃなかったわ。幻滅〜〜。もう、帰ろうっと。早くお父様に訳を言って、謝らなくては…」
私が父の元へ帰ろうとした時、海を見つめる彼の真剣さが心に突き刺さる。
なんだか、気になっちゃうじゃないの〜。
「ねぇ、海の中で何か探していたの? いいわ、こうなったら私が代わりに貴方が探している物を見つけてくるわ。余程、大事な物なんでしょう?」
彼が首を振る。
「何よ、私じゃ見つけられないって言うの? こう見えても人間よりは…」
“違う。とても小さい物だから無理かもしれないんだ”
「無理かどうか、やってみなくちゃわからないわ」
彼はハッとしたように私を見返す。
「貴方…しゃべれないのね? その、何て言うか、わかるのよ貴方の今考えてる言葉。人魚の持ってる能力だから…なのかな。言葉に出さなくても思ってる事が私の頭の中に響いてくるの。もっとも、この能力も相手が心を開いてくれないと、効きめがないんだけどね。あっ、そうだ! 貴方の名前は?」
“甲……児”
「そう、よかった〜。やっと、貴方の名前がわかって。私はさやか。じゃ、ちょっと行ってくるから待ってて。大丈夫、必ず探してくるから」
心配そうに見送る彼を残して、私は再び海の中へ潜っていく。
彼の探してる物が、頭の中にイメージとして浮かんでくる。
ペンダントはどこ? 彼にああいう風に強がったものの、この広い海の中で探し出すのって、やはり少し大変かも。
ええいっ、こうなったら他の皆にもお願いしてみようっと。
私は周りの魚や貝の仲間達にも、声をかけてみた。皆、心よく引き受けてくれた。ああ、良かった。きっと皆で手分けすれば見つけ出せるはずだわ。
でも、いくら、慣れた海の中だといっても、そう簡単には出ては来なかった。
「やはり、無理だったのかしら?」
少し弱気になりかけた時、一匹の魚が私を呼ぶ。
揺らめく海藻類をかき分けてみると、そこには探しているペンダントが落ちていた。
「あ、あった! これよ−−−、皆、ありがとう」
私は仲間達にお礼を述べると、早々に海上へと向かう。
「はい、これ」
そう言って甲児君の目の前にペンダントを差し出すと、今までずっと沈んでいたのが嘘のような、あふれんばかりの笑顔が彼に広がっていく。
彼の心は感謝の気持ちで一杯だった。私の中にもそれが痛い程よく伝わってくる。できる事なら、ずっとこのまま見ていたい。
“本当にありがとう。なんてお礼を言ったらいいのか…。これはたった一つの俺自身の手がかりになるかもしれないから”
手がかり? 妙に気にかかる言葉だった。
でもその言葉は彼からかすかに響いてきただけのものだったので、それ以上の事を読み取る事はできなかった。
「お礼だなんて、私はそんなつもりでやったんじゃないわ。気にしないで。その代わり、私と会った事、絶対に他の人間には知らせないって約束して…」
甲児は大きく頷く。 私も心が満たされていく。
(そういえばあの紳士があの時、海へ投げたのはもしかしたらこのペンダントなのかしら?)
そう思いかけて、私は彼にこの事を告げず胸にとどめた。
そうよ、こんな話をしても何の根拠もない。
彼と別れるのに後ろ髪を引かれる思いで、海へ還る私。
私は彼の事を思い浮かべると、なんだか顔が緩んできてしまいそうだった。
今日私が陸で見つけた大切な宝物…の気がしていた。
でも案の定、すっかり戻るのが遅くなってしまった上に人間に姿を見られた事を知ったお父様はひどく怒られたわ。
仕方ないわよね、確かに掟を破ったのだし…覚悟はしてるわ。
かつてない海王の激しい怒りに、三大臣達も終始のうろたえ。どうする事もできない。私は罰として、しばらくの間城の中から一歩も出てはならぬ…と、言い渡されてしまう。たとえ娘であっても、海王の命令には背く事はできない。この海に生きる者として。
それでもこの謹慎処分も、掟破りとしては異例の寛大な処置という事だったけど。
それからしばらくの間は、厳しい見張りの下、私は城の中でじっと過ごす日々が続いた。今まで城の中にいるより、外で遊んでいる時間の方が長かった私には、城から出られない事は耐えがたいものだと予想はしたが、それ以上だった。
一番つらかったのは、海の上へ行けぬ事だった。
諦めよう、忘れようとすればする程、陸への想いが募る。
陸には彼が…甲児君がいるから。会いたい、もう一度会いたいのに…。
叶わぬ願いにすっかりふさぎ込んでしまった私を、陰ながら心配する三大臣。
そんなある日、三大臣達が突然私に海の上へ言って来いと告げる。
その言葉を聞いて、私は飛び上がらんばかりに嬉しさがこみ上げてくる。が、同時にそんな事を言いだした大臣達も海王の怒りに触れるのではないかと心配する私に、三大臣達は大丈夫だからと尚も勧めてくれる。
但し、海王が城へ戻ってくる時間までには何がなんでも帰ってくるようにとの念を強く押されて。
私はその誓いを胸に再び海上へ。夢にまで見た懐かしい陸の空気、夜空の星々。
私は空に向かって思い切り、腕を伸ばす。
今にも天空から降ってきそうな星々が、一瞬自分の掌に収まってしまったかのようにさえ思える。満月も静かな輝きを放つ。
船もあの時のまま、海上に停泊していた。
胸の鼓動が高鳴る。甲児君は…いるのかしら?
期待に包まれながら、船に近づいてみる。あの時のように船上からは、賑やかな声が聞こえてくる。次々と出入りする人々をしばらく見ていたけど、彼の姿はなかった。落胆しつつ、その場を離れて彼と最後に別れた浜辺の方へ泳いで行ってみる。けど、そこにも静かな波の音が打ち寄せるばかりであった。
“もう、貴方には会えないの? 甲児君”
やはり再会は無理だったのだ。諦めかけて海へ戻ろうとした時だった。
“さやか…さん”
直接私の脳裏に響いてくる…あの声は…。
星の下、求めていた影が立っていた。二人の出会うきっかけとなったペンダントも、彼の胸元で揺れている。
「甲児君−−−っ」
どちらからともなく、互いに腕を伸ばし合う。
帰って来たのだ、この人の元へ。言葉にならない言葉が、私の中でもあふれ出す。
そして私を抱きかかえた甲児君は、自分の膝の上に私を座らせ、そのまま岩場に腰をおろす。
「駄目、そんな事したら甲児君の服が水に濡れちゃう…」
私は慌てた。でも、彼は笑っていた。
屈託のない笑顔だった。信じられない、彼の笑顔がこんなに間近にあるなんて。永遠にこのままで止まって欲しい時間の流れ。
「えっ? 貴方も毎日この浜辺に来ていたの?」
彼はこっくりと頷いた。
“ここに来ていたら、もしかしたらまた君に出逢えるんじゃないかと思って”
私、クスっと笑う。
“えっ、どうしたの?”
「ううん、お互い同じ事考えていたんだな〜って思って…」
って私。
何よりも嬉しい彼からの想い。
でも、気になる事もあった。
「その手の包帯、どうしたの?」
彼の右手には包帯が巻かれており、見ているだけで痛々しい。
“あ…あ、これは、その…ちょっと、切ってしまったんだ”
一瞬、甲児君の表情が暗く沈んだように見える。
私、なんだかその事に触れてはいけない気がして話題を変えてみる。
「甲児君は、ここに来る前はどこにいたの? ずっとあの船に乗っているの?」
私は素直に彼の事が、色々と知りたかった。
でも、私の問いかけに彼は困惑したようだった。
“あの船の持ち主である紳士に怪我をしていた所を俺は助けられて、今も世話になっているんだ。でも、ここに来る前の事は…わからない。思い出せないんだ”
「思い出せないって、どういう事なの?」
炎…潜在的に唯一甲児の脳裏に甦るもの。
その炎に包まれた中で、悲し気に自分を見つめる瞳と差し伸ばされた手。
でもその手は虚しく炎の中に消えていく。
一体、誰だ? 何なのだろうか?
彼は、ただ首を横に振る。私にも彼の切なさが伝わってくる。
深く閉ざされてしまった彼の闇の部分。誰にも、どうする事も出来なかった。
「ゴメンナサイ。もう、いいの」
いたたまれなくなって、私も話を途中で遮る。
“こんな自分さえも何なのかわからないような奴と会うなんて、君だってきっと嫌だろう?”
私は返す言葉の代わりに、力強く彼の手を握りしめる。
“きっと今、人魚のお姫様が自分の腕の中にいるって言っても、世界中の誰も信じてはくれないのだろうなぁ〜”
嬉しそうに、微笑みを取り戻した彼の言葉の響きが、心地よい。
ううん、実際には甲児君はしゃべる事ができないのだけれど、彼の心の言葉を強く脳裏に感じ取る事ができて、ただそれだけで私は嬉しくて仕方がなかった。
「世界中の誰もが信じてくれなくても、あの星々が私達の事を信じてくれているわ」
過去の事なんて必要ない。今、私のそばにこうして貴方がいてくれる…ただ、それだけで。
月の光の下、二人にはもう言葉は必要なかった。